第10代崇神天皇
父親   開化天皇
母親   伊香色謎命(いかしこめ)
皇后   御間城姫(みまきひめ)

記紀によれば3世紀から4世紀初めにおいて実在した人物という事になっています。
日本史研究の立場からは、たくさんの説があるものの崇神天皇を実在の人物として捉えています。
 それ以前の9代までの天皇は伝説の域を出ない、そう言う事にしたいのです。

何故なら現代に繋がる支配の構図が、崇神天皇から始まったと言っても過言ではないからです。

それでは崇神天皇とはどのような人物なのかゆっくりとご紹介して行きましょうか。

前ブログにも書きましたが、天皇と呼び始めたのは持統天皇からという事を頭に入れておいて下さい。
 
崇神天皇とは諡ですから当時の本当の名前はわかりませんがたくさんの名前をお持ちです。

御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)
御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)
御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)
賀茂別雷(かもわけいかずちのみこと)
御食入彦(みけいりひこ)
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)

御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)
国に置いての初めての天皇と言う意味です。
第10代と言いながら初めての天皇とは、どういう意味なのでしょうか?
その謎は名前から解き明かされていきます。

最初は、
御間城入彦五十瓊殖天皇
(みまきいりびこいにえのすめらみこと)
通称   御間城入彦  から解読します。
御間城入彦がどこからきた名前かと言うと
皇后である御間城姫からきています。
入彦とある通り入った男つまり入り婿なのです。

「入」と言う文字は後々天皇に付ける文字の一つのように高級感タップリに転化して行きます。
それは 崇神天皇正当化する為の方便で、入ったと言うこと以外ありません。

御間城姫は第8代孝元天皇の息子大毘古命の娘です。
大毘古命は御間城入彦の父である第9代開化天皇と兄弟ですから従兄弟同士になります。
記紀ではこのような説明になっています。

しかし、
御間城姫を調べていくと違った事実が見えてくるのです。

御間城姫(みまきひめ)
                ↓
御真津姫(みまつひめ)
               ↓
宮簀媛(みやずひめ)
御真城姫は宮簀媛と同じお姫様でした。
宮簀媛は日本武尊のお妃です。

宮簀媛を祀る神社があります。
大御食神社(おおみけじんじゃ)
長野県駒ヶ根市赤穂11475番地
主祭神
日本武尊
宮簀媛(五郎姫)
八幡大神
別名「美しの杜(美女ケ森)」
 社伝記のよれば日本武尊を饗応した地元の里長、長赤須彦は「御食津彦」と言う名前を賜ったと言う。
日本武尊は長赤須彦の娘押姫を愛で、赤須の里に三夜滞在した。(以来、赤須彦の子孫である神官宅を采女屋敷と呼ぶ)
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(大御食神社は五七桐紋)

御食津彦とは豊玉彦の事です。
豊玉彦から名前を貰ったのは長赤須彦(長髄彦)です。
何故貰えたのかと言うと豊玉彦の娘豊玉姫と結婚したからです。
押姫は、長赤須彦の娘ではなく長髄彦と豊玉姫の息子息子天足彦(あまたらしひこ別名 彦坐王)の娘です。
(つまり孫娘です)

彦坐王(ひこいますおう)
日子坐王(ひこざおう)
彦今命(ひこいまずおう)
媛と同じが使ってあります。
天足彦(あまたらしひこ)
天足彦命と彦坐王は同一人物です。
天足彦は日本武尊の父親です。
そして宮簀媛の父親でもあります。

日本武尊より草薙の剣を預かって熱田神宮で護り続けました。
日本武亡き後再婚したのでしょうか?
そんな事はありません。

それは断夫山古墳を見れば明らかです。

崇神は御食入彦(みけいりひこ)と言う名前もあります。
御食入彦、御真城入彦の二つの名前はあきらかに宮簀媛、御食津彦から盗っています。

崇神天皇は系図を誤魔化し正当性を出そうとしています。

その手口は、名前と出自の乗っ取りから始まります。

次回も崇神天皇の野望に迫りますね~^_^
凄い事をどんどんしています。

悪に寝返ったダースベイダーのようなお方です。

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